モール

短編の小説を中心に載せてゆく予定です。「モールのなかの暮らし」をコンセプトで、ショッピング・モールの小さな物語を集めます。終わりがあるのかは解りませんが、完成次第、発表していきます。

通勤する者

 モールは工業地帯の工場の跡地に建てられた。それより前は穏やかな海が広がり、平地の少ないこの町は少なからざる資本を投資して埋め立てたのだった。工業地帯と言っても、好き好んでかどうなのかそこに住む者は存在する。男は駅までの近さゆえにそこに2階建ての家を建て、食品工場に挟まれた大きな道路を歩いて通勤していたが、5年前、モールに変わって、道が完全に塞がれると、彼は頑なに中を通って駅へ向かった。元の通勤を再現するためには、建物のなかも通らなければならない。朝八時のほとんど客もいないモールを、毎日紺色のスーツ姿の男が歩いている理由はこういうわけだ。

「あそこにいるのは暇そうな連中ばかりだ」彼は妻に話した。

「でも、モールのお陰様でうちの家計はだいぶ助かってる」

「この飯もモールで買ったものか」

「ええ、そのハンバーグは除いて」彼女は答える。「でも、あなたの命令は守ってる。月5000円までしか買わないことってね」

「なぜ駅前のスーパーを使わないんだ」

「だって遠いですもの。それにちょっと陰気だし——」

 それを聞くと男はハンバーグしか口にせず、サラダもコメも残して、彼女は溜息をこぼす。彼女は男がモールを毛嫌いしていることを知っていた。モールの話題をするだけで彼は不機嫌になるうえ、5年前に利用してた数々の小さな店舗のことを語るのだ。だが、そのほとんどは潰れてしまい、残ったものも寿命は幾ばくも無い。

 月5000円までというのは男にとって最大の譲歩のつもりだった。本当はそれすらも許可を出したくなかったが、男の凡庸な給料ではモールの夕方のセールに頼らなくてはならなかった。

 週末になると男はほとんど家を出ることがない。周辺の渋滞は彼を苛立たすだけで、その車の大行列の連中の苛々した顔を見るとさらに苛立った。もし、彼が住むより前にモールがあったなら、何の抵抗もなく利用していたかもしれない。強制的に、しかも悪辣な形で環境を変えられてしまった——男が家の窓を開けると3階建ての巨体があり、その嫌らしい青がかったベージュの外壁が見える。

 建設反対運動に参加したかつての仲間たちとも時が経ち連絡が途絶えていた。彼らの多くは、歓楽街の経営者か、モールから立ち退きを勧告された住民、あるいは潰れるのが目に見えていた周辺の商店の人々で、一度建ってしまうと彼らは何事もなかったかのようにモールを利用していた。そのなかには、モールの内部で働きはじめた者もいる。裏切り者——男の独り言は、何度も彼の口のなかで呟かれ、どこにも届くことなく擦れて消える。

「俺は、俺が死ぬより前に、あの建物が消え失せるのを見届けてから死にたい」

「ねえ、私はあなたが狂ってしまうのを見たくない」

「狂う?」

「この町の誰も反対運動があったことさえ覚えている人はいないし、もう今は、モールがなくなったら困る人の方が多いでしょう。私もそう。きっとあなたは自分が負けたのを認めたくないだけ」

「いや、賛成反対の数の問題じゃないんだ。あいつらのやり方の問題なんだよ。集客数予測のグラフと、土地の価格さえ釣り合えば、どこにだって建ててしまう。そこら中にモールが建てられて、他の店という店がなくなってしまった時に、ようやく俺たちは気が付くのさ。日本のどの町も入れ替え可能じゃないかってね」

 男の通勤ルートは東口から入り、そのままメインストリートを真っ直ぐ抜け西口へ出る。彼が買い物をすることはない。ただ、そこを通ることに彼なりの抵抗があった。もし彼と同じく、金を一円も落とさない人間ばかりが建物をうろつけば、彼らも目を覚ますに違いないと。もちろん、それは起こるはずのないことで、たった一人の人間がモールをうろついたとしても、利益はないが害もない。男は入り口にある立て看板をひっくり返したり、フロアガイドをすべて抜き取ったり、あるいはその他ちまちまと嫌がらせ行為を思いつくままに繰り返したが、そのどれもが長くは続かなかった。嫌がらせをするのにも根気がいるものだ。

 土曜日の夜、彼は珍しく寝付けずにベッドの端で考え事をしていた。妻はまだ一階のリビングにいて、微かにテレビの笑い声が聞こえ、またくだらない番組でも見ているんだろうと彼は思った。眠りを誘うため、ウィスキーを軽く飲もうと思い、階段を降りてゆくとその笑い声が段々と大きくなる。彼がドアを開けると、妻は振り返り目を見開いて、「あ」と小さく呟いた。彼女の手元には、モールの青くベージュがかった袋と、見慣れたチェックの紙袋があった。これは駅前の紳士服店のものだ。

「そういうことか」男は言った。

 彼女は黙ったままだった。

「俺は妻にさえ裏切られていたとはね。月5000円なんて、嘘っぱちだったんだな」

 テレビのバラエティ番組から乾いた笑いが響いている。男は彼女がなんと弁解をはじめても、引き下がるつもりはなかった。しかし、彼が着ているシャツもジャージもパンツも、カエルのスリッパもみなモールで購入したものだった。

「騙したのは悪いと思っている。でも、5000円を越したことはないの。これは信じて欲しい」

「お金の問題じゃない、これは夫婦の信頼の問題だよ」

「どこで買おうと一緒よ。どうしてモールだけは使ってはいけないの」

「どこで買おうと一緒なら、どうしてわざわざモールを使う必要があるんだ」

 男は彼女から包装を取り上げ、わざとらしく音を立てながら破り、なかには赤色のネクタイが入っていた。

「誕生日おめでとう」妻が言った。

 その時、男は自分の身体のなかで、あらゆるものが萎えてゆくのが解った。反対運動はたしかに正しさのための戦いだったが、今の彼はその時の記憶ばかりがぐるぐると頭を巡り、受け入れることができなかったのだ。男はソファに腰掛け、しばらくその赤いネクタイを見つめていた。