モール

短編の小説を中心に載せてゆく予定です。「モールのなかの暮らし」をコンセプトで、ショッピング・モールの小さな物語を集めます。終わりがあるのかは解りませんが、完成次第、発表していきます。

試飲

 モールの地下へ降りると、たいていの百貨店がそうあるように、ここでも食品売り場が広がっている。惣菜売り場と焼きたての饅頭屋の間を抜けた先に、「地酒しか扱わない酒屋」があり、やる気のなさそうな男が店前に立っている。彼こそ、この短編の主人公の稲田である。OSBボードで表面を仕上げた台の上にベージュ色のお盆を乗せ、ワインと日本酒(週末には焼酎が加わる)を、きっちり25mlずつ注いでゆく。出勤中のほとんどの時間、彼はそこで客寄せのために、僅かな量の酒を配っていた。

「いらっしゃいませ。とっても美味しいお酒を無料でお配りしております」

 腕時計を見ながら、彼はこの言葉をおよそ20秒毎に機械並みに正確に発していた。そして、「無料」をわざとらしく大声で言い、時折、通行人が振り返るのだが、寄って来る者はいない。だが、誰かひとりが立ち寄ると、堰を切ったように、稲田の周りにわっと人だかりができる。「けちん坊たち」と内心で考えながらも、彼はぎこちない笑みを浮かべひとりひとりに試飲のコップを配ってゆく。

「ワインも、ちょうだい」

「お客様ひとりにつき一杯までなので」

「私の、一杯分も入ってなかったのよ」

「僕が店長に怒られますから」

「前の人は、こっそりくれたのに」

 稲田は周りを見渡して、店長がいないのを悟ると、何も言わず彼女に二杯目を手渡す。受け取った彼女は、店に入ることなく、惣菜コーナーの方へ早歩きで姿を消す。この地下を一回りすれば、おにぎり二個分くらいに腹はふくれるのだ。後ろ姿を見送った稲田は、バインダーに挟んだ表に二本の線を書き込む。

「稲田君、減りは順調?」

 休憩から戻って来た店長が、彼に尋ねた。

「今日は30杯ですね」

「まずまずね。閉まるまでに90は行って欲しいかしら」

 90杯——つまりは、750mlの酒瓶3本分である。どれだけ一日の売り上げが酷いものだったとしても、このノルマは達せられなければならなかった。試飲それ自体が売り上げに繋がることは少なく、その大半は試飲を目的とした人々によって消費されてしまう。試飲のノルマは、不合理なものに思えるのだが、店員たちは変えるべきでないものとして受け入れていた。試飲は、創設当初からの社長のこだわりなのだ。

 稲田はこの試飲の役に回されてから三ヶ月が経っていた。そして、彼はこのノルマが苦痛で仕方なかった。

 結局、その日は56杯しか配れず、彼は残った分の廃棄に向かう。「その日の酒はその日の内に」、これも社長のモットーなのだ。誰もいない給湯室で彼は数杯のワインを飲んだ。そして、脇に挟んだバインダーにその数杯分の線を書き入れ、口臭を消すため何度か水でうがいをして店へ戻った。

 ノルマに到達しなくとも、彼自身が叱責を受けることはない。店長の方はどうなのか彼は知らないが、口調が少々荒くなる様子からして、何らかの圧力はありそうだった。

「59杯! ちょっとあんまりね。稲田君のせいだけじゃないけど、あんまりね」

 店長はそう言って、表に何本か線を付け足す。売り上げなら容易に誤魔化せないが、こちらにしか情報が残らない報告書ならいくらでも足したり引いたりできる。

「車で来るお客さんが多い店舗なのにね」店長は溜息をこぼす。

「試飲して買う客なんて、そんなにいませんよ。大半が試飲の常連さんか、もう会計の終わったお客さんです」

「社長は試飲原理主義者なのよ。試飲の量に比例して、売り上げも伸びるって信じてる。そして、案外それが当たってるのよ」

 その月末に店長の急な転勤が決まった。彼女はみずからその理由を述べなかったが、他の社員からの話によると、各店舗の試飲の統計グラフを見た社長が「お怒り」なのが原因らしい。一ヶ月、店長不在の期間が続いた。その間ノルマを気にする者はなく、稲田は少し気が楽になった。仕事終わりの数杯——これは稲田の止めがたい癖となって、そうしなければ彼の試飲役という退屈な一日が終わらない気がした。彼はこの仕事が自分に合っているとは思わなかったが、責任のない身分で、身体も使わず何も難しい事を考えずに済むという点においては、恵まれた仕事だと思っていた。

 新しい店長が就任すると、その初日から彼女が試飲役を務めるようになった。その声量はあまりに大きく、地下ぜんたいに届いているかと思われるほどで、時折、驚いた客が肩をびくつかせた。そして、彼女はお盆を片手に店内を回り、配りきってしまうと、他の店舗のエリアまで徘徊して、夕方頃には90杯を達成してしまうのだった。

 一方で稲田はレジや品出しなど、かつての仕事をしていた。彼はそのどれもが自分に合っていないことを知っていた。商品を箱から出して並べる作業は人の二倍の時間はかかり、彼がレジに立った後は金額が合わないことが多々あった。前の店長が、彼に試飲役をさせたのはこうした経緯だった。そうして、日が幾らか経つと、新しい店長もそれに気が付き、稲田を元の仕事に戻して、とことん教育することに決めたのだった。

「いらっしゃいませ。とっても美味しいお酒を無料でお配りしております」

「ごめんね、おにいさん、今日は車なの」

「お連れ様はいかがですか?」

「これがあるなら、飲んでみたいです」

「これは試飲できないです」

「あら、残念」

 稲田は右手でコップを掴んだまま渡すことはできなかった。何か言い添える言葉があれば、受け取ってくれたのかもしれない。店長の指示で彼は店から出て、和菓子の売り場の辺りにお盆を持って回る。試食用の饅頭が、樹脂ケースのなかで8等分にされ、爪楊枝が置かれ、「ご自由に食べてください」という黄文字の可愛らしいポップが貼られている。うちもこれでいいじゃないか、彼は心でそうぼやいたが、そうなれば彼の安住する立場がなくなってしまうことに気付いてはいなかった。また、他の店舗の縄張りで客取りをするのには、それなりの覚悟が必要だった。彼らと直接関わりがある訳ではなかったが、何をしているんだと思われているのは彼らの目つきで解った。そうして、何よりあの台の前で棒立ちしていた頃に比べて、試飲の量が減っているのだ。新しい店長なら、と彼は考える——新しい店長はノルマに厳しい人だろう。この新しいやり方は僕に合っていない。

 稲田は給湯室に向かい、コップ並々のワインを2杯飲んで、日本酒を1杯飲んだ。だいたい10杯分くらいは消費しただろうか? 彼は表に10本付け足して、くず入れに10個のコップを捨て、それでもまだ足りない気がしたので、日本酒の瓶を空にしてしまった。最後の一口がきつく、排水口に流そうかとも考えたが、彼は飲み切った。いつも以上に念入りにうがいをしたが、口に手を充てると酒の臭いが残っているが解ったので、一階の薬局でマスクを買い、自分の足がふらついていないのを確かめてから店へ戻った。

「稲田君、さっきマスクなんてしてた?」店長が尋ねた。

「エプロンのポケットに入ってて、あの、自分が風邪をひいていた事に気が付いたんです」

「それはお大事に。でもね、接客業にマスクは厳禁よ。あなたは風邪の人が触ったもので、食べたり飲んだりしたいと思う?」

「すみません」

「でも、まあ、ひいちゃったもんは仕方ないし」

 彼が用心深く小声で話していたせいか、店長は臭いには気が付かなかった。そして、今日は特別にと、あまり動き回らず、以前の慣習どおりあの台で配っておくことと指示を貰った。稲田の前には懐かしい光景が広がっていた。総菜屋の緑豊かなサラダのパック、ガラス板の向こうでは回転焼きの生地が鉄板に流し込まれている。それから、またお馴染みの試飲の常連さんたちが訪れ、「新しく来た人はね、渡してくれなかったのよ」と稲田に小言を言った。次第に、彼の機械的な声出しが途切れはじめ、頭がぼんやりと白くなった。ちょっと飲み過ぎたな——稲田は眠くなると自分の右足を左足で踏みつけ、睡魔を追っ払おうとしたが、また白の世界が訪れたときには、すぐさま店長の声がした。

「ほんとうに大丈夫?」

「大丈夫です」

「帰って貰ってもいいし、何なら医務室もあるのよ。ここで倒れちゃうのも困るし——今、何杯までいったの?」

「えっと、75です」

「後は私がやるから、今日は家に帰って風邪を治しなさい」

 稲田は承諾したけれど、自分の手でノルマを達成したい気持ちはあった。少しばかりズルをしてしまったが、この調子なら上手くいくだろう。口には出さないが、彼は彼なりの試飲役としての矜持があったのだ。しかし、店長に逆ってまでやりますと言うことが出来ず、その日は申し訳なさそうにして帰った。

 彼がそれなりの量を飲まなければ、ノルマに届かないことは明らかだった。だから、彼は飲むほかなかった。もちろん、排水口に流し込んだり、持参のボトルに移し替えるなど他の手段もあったはずだ。ただ彼としては、表に付け足されてゆく「正」の文字は、その日の内に飲まれたものでなければならなかった。私たちから見れば、それは独りよがりの奇妙な鉄則のようにも思われるのだが、彼は至って真面目だ。ひとつ目の良心の壁が越えられた以上、ふたつ目の壁を築かなければならない。

 そうして、マスクをつけたり口臭剤を吹き掛けたりで、一週間彼はノルマを達成した。過去の彼を知る店員たちは不思議に思ったが、新店長の教育のおかげだろうと結論を出した。ある週末の日に、ひとりの客が酒瓶を落として、破片と中身が飛び散り、店長は片付けに給湯室へ向かう。そこにはマスクを顎にずらし、日本酒をラッパ飲みする稲田の姿があった。

「なにしてるの?」

店長は怒りも呆れも通り越し、異星人を見ているような調子で言った。

「試飲を」

「なぜ、あなたが飲んでるのって聞いてるの」

「僕は店長のために飲んでいるんです。僕は酒好きじゃないし、あの、飲まなくて済むならその方がいいです。でも、90杯なんて普通の人にはできないし、でも、店長は90いかないと、上の人に怒られるでしょう。それで、前の店長も、飛ばされたって聞いたし——」

「あんた、自分を正当化しようとしてるけど、言ってること、めちゃくちゃよ」

「じゃあ、捨てた方が良いって言うんですか」

 稲田の悪びれる様子さえ見せないところが、彼女には不思議だった。仕事の適正などという問題じゃない、彼は何かを思い込むことでしか、エゴを見出せないのかもしれない。

 

 その新しい店長も結局はすぐに飛ばされてしまった。店長という肩書きも失って——そう、ちょうど稲田の試飲の現場に居合わせたその夜に、彼がバイク事故を起こしたのだった。地元の新聞記事にもなってしまったので、社内会議で試飲を廃止することが決まった。