モール

短編の小説を中心に載せてゆく予定です。「モールのなかの暮らし」をコンセプトで、ショッピング・モールの小さな物語を集めます。終わりがあるのかは解りませんが、完成次第、発表していきます。

オールド・フィッツジェラルド

 ふたりはいつもの様に座席の一番奥に座り、レモンの酎ハイを二つ頼んだ。今日は木曜日なのにほぼ満席で、隣の中年の男性は「パパッと出来るはずの枝豆が遅い」と愚痴をこぼしていた。工藤はスーツのジャケットを脱ぎ、肩に散らばったフケを払い落とすと、連れの矢部にハンガーを渡した。矢部はスマートフォンに見入っていて、その動作に気付かず、工藤が大袈裟に座卓をハンガーで叩くと、サンキュとだけ返事をした。

「どうしようか」

 誰もがメニューを手に取ると発する一言を工藤も口にしたが、相手からは期待する答えが返って来ないことを理解していた。ふたりは三年以上もこの店に通っており、酒も料理も(季節限定のものさえも)すべて体内を一度は通っていたのだ。「何でもいい」それが矢部の答えだった。彼は画面をコツコツと叩いたまま、何か考え事をしているようだった。

 工藤の注文した焼き鳥の盛り合わせと、大根のパリパリサラダが届き、その時、ふたりが店内に入ってはじめて目が合った。矢部の目つきは、あらゆるネット中毒者と同じくどんよりとしたものだった。

「やつれてるな」

「お互い様だ」と矢部は答えて、微かに微笑んだ。

 酒も二杯目に入ると、次第に矢部も意識をネットから現実へと移しはじめた。そうは言っても、対象はアルコールであったのだが。一方、工藤は少し厚目の唇を開いたり閉じたりしながら、ある機会を待ち侘びていた。しかし、彼はまだ自分の方から機会を掴む根性がなく、もう少し強いアルコールが必要だな、と考えていた。彼は鞄から手帳を取り出して、ほとんど真っ新な来月のページを開き、意味もなく月末の枠をシャーペンでなぞった。

「紙の手帳なんてオヤジ臭いぜ」と矢部は言う。

「オールド・ファッションだけが取り柄なんでね」と工藤は答えた。「まだネットも繋げちゃいないんだ」

「まるで原始人だな。ネットがなきゃ、これをするのにも金が掛かるだろう?」

 矢部はそう言いながら、空中で手を擦る動作を見せた。

 工藤がトイレへ立つと店の前に行列が出来ているのが見えた。彼らはみな白い息を吐きながら、右手のスマートフォンを眺めていた。彼は個室に入り、便座の蓋の上に腰を下ろした。尿意があった訳ではない。ただ一人になる時間が欲しかっただけだった。だが、考えてみれば、この店を訪れた時から、彼は一人も同然だったような気がした。工藤がトイレを出て、カウンターを横切った時、棚に並んだキープボトルが目に入った。たしかずっと昔に、ボトルを頼んだ。あの時は、工藤と矢部と―――合わせて五人いたはずだった。会社の同期五人。最後に飲んだのはいつの事だっただろうか。

「ボトルキープしたの、覚えてる?」

「ん?」矢部は顔を上げて顎を撫でた。「ああ。焼酎ではなかったよね。あいつが飲めなかったからさ。そう、あいつ、ほら、最初に辞めてったあいつさ」

「あの頃は、喫煙者が三人だった」

「そうそう。吸わない俺らはいつも端っこに座っていたな」

 矢部はそう言って、座席の角の灰皿が積み上がっている辺りを指差した。

「残ってると思う?」

「なにが?」

「ボトル」

「さあ? 聞いてみるかい?」

 工藤は店の人を呼んでふたりの名前を告げた。そもそもボトルに彼らの名前を書いていたかも定かではなく、ほとんど期待もしていなかった。

「一人酒好きがいただろう?」と矢部が言った。

「いたね、二番目に辞めていったあいつね。お互い給料は少なくて同じなのに、キャバクラではいつも奢ってくれたな。あいつの名前なら、ボトルに書いていたかもしれない」

「名前も思い出せないなんてね」

「連絡先は残ってないの?」

「辞めた奴は全部消した」

 矢部は苦々しい笑みを浮かべた。「退職者の連絡先は消去せよ」というのは、ふたりの会社では社訓より重い鉄則になっていた。退職者がライバル企業を立ち上げて、芋づる式に社員を引き抜いていった過去が、彼らの会社の生々しい記憶として残っていたからだ。ボトルを探しに行った、アルバイトの女性が戻って来て、見つからなかった旨を伝えた。

「せめて銘柄でも覚えてませんか?」

 女性はメニューをふたりに向かって広げて見せた。

「どうだったかな」と工藤が言う。「最後に飲んだのは三人の時だったから、一年は経っているな」

「一年ですか―――おそらく捨ててしまったかもしれません」

「本当に捨てるの?」と矢部は女性の顔をじっと見た。

「ええ」

「流し台に? それとも裏のドブの中かな?」

 女性は不可解そうに矢部を一瞥した。面倒くさい酔っ払いに絡まれたと言いたげな表情だった。また何か解ったら声を掛けて下さい、と彼女は言い残して去った。「新しいバイトの娘だな。大学生かな?」と矢部は独り言を言った。矢部が彼女に狙いをつけはじめたことを、工藤は感じ取った。そうだ、われわれは過去に成功体験があったのだ。しかもこの店で。いや正確には「われわれ」ではなかった。あいつ―――あいつの名前はなんだったか。

「しかし不思議なもんだな。俺たちは最初五人いたはずだった。そして、新入社員の頃に話していたことなんか、よく覚えているんだ。俺たちなら変えられる。俺たちが変えてやる。一人は起業、一人は東京? もう一人はなんだったっけ。たった三年で二人っきりになってしまったな」

 矢部はそう言って、グラスをぐいっと飲み干し、憂鬱げにスマートフォンを見下ろした。言うなら今しかないだろう、と工藤は思った。

「じつは」

「もういい」と矢部は言葉を遮った。「もう知ってる。一ヶ月も前からな。ただ、お前の口から直接聞きたかったけどな」

 彼はのけ反り返って、頭を店の薄汚い壁紙につけ、天井を仰いだ。工藤は謝るべきなのかどうか悩んだ。それは退職のことに対してではなく、矢部が今日彼を誘うまで、工藤自身が機会を作ろうともしなかったことに対して。この一ヶ月の間、白々しい会話をする工藤を、矢部がどういう風に彼を眺めていたのかを考えると、恥ずかしさでいっぱいになるのだった。

「ひとりか」と矢部は呟いた。「工藤の名前も、その内忘れてしまうんだろうな」

「定年まで続けるの?」

「君たちみたいに、俺は要領が良くないからね。安い給料と、ちっぽけな会社にしがみついて生きてゆくしかない。後は会社が潰れてしまわないように、祈るだけさ」

 工藤は何も応えなかった。その最後の言葉は、少し声を荒げた調子で、矢部の不安感がそう言わざるをえないように仕向けたみたいだった。もしこれが逆の立場だったら―――と工藤は思い巡らせたが、彼は途中で考えるのを止めてしまった。

 その時、さっきの店の女性が一本の茶色のボトルを持って来た。今は亡きオールド・フィッツジェラルドで、中には半分ほどの量が残っていた。

「店長に聞いたら、倉庫の方にあるかもしれないと言われて。ちょっと埃被ってますけど」と彼女は言い、湿った布きんで表面を拭った。「運が良いですよ。ウィスキー以外なら、まず残ってませんから」

 彼女は新しいグラスをふたつ、透明なアイスペール、水入りのポットを運んできた。彼女が注ごうとした時、工藤は「自分で注ぐから大丈夫」と言い、彼女は去った。矢部は少し残念そうにしながらも、今日空けちゃうかと笑った。工藤がボトルの首を掴むと、白く太い文字で何かが書かれていることに気が付いた。

 

《田上・桃井・矢部・長谷川・工藤 我ら新人五人衆見参!

最後に飲み干した者が社長になる》

 

 工藤はついつい噴き出してしまい、覗いてきた矢部も大声で笑った。

「これ書いたの、田上だろう。こんな阿保な文章はあいつしか書かない」

「長谷川が俺たちより先に社長になっちまったな。そうだ、長谷川が辞めたのを最後に、これを飲まなくなったんだよ。俺たちどっちもウィスキーなんて飲まないからさ」

「桃井、そうそうそう! 桃井だ。あいつ営業車ぶつけて、そのまま会社辞めたんだったな。懐かしいな。いま何してるんだろうな、桃井」

「一年前に、中央駅ですれ違った気がするんだ。お互い一瞬目が合っただけで、何にも話さなかったけど。鼻の下に髭を伸ばしていたよ」

 かつての同期たちの名前が、獲物を引き寄せる釣り糸になったかのように、まさに今、この座卓に見えない同期たちが同席しているかのように、ふたりは止め処なく思い出話を続けた。ふたりがこうして楽しげに言葉を交わすのも久しいことだった。彼らふたりの関係は、仲のいい同僚というよりは、残された者同士の義務的な繋がりだった。今日ならば朝まで語り合える気さえした。

 閉店間際にふたりはボトルを飲み干し、記念に、と言って空の瓶は矢部が持ち帰ることになった。木曜日は過ぎ、すでに金曜日の空気が街を包みはじめている。別れ際、工藤は「矢部が社長になれよ」と肩を叩いた。矢部は「その時にはお前ら全員呼んで、好きなだけ飲ませてやるよ」と答えた。タクシーが出発して、先の交差点の赤信号で止まった時もまだ矢部の手を振る姿が(反対の手にボトルを掴んだまま)見えた。青信号になり、矢部の姿も次第に夜の闇に消え入った。工藤は酔った頭を押えながら、明日の予定を確認しようと手帳を取り出した。朝に重要な案件はなく、最悪は残った有給を消化できそうだった。彼はその時、忘れてしまわない内に、ボトルに書かれていた名前を書き残しておこうと思った。だが、ついさっきの事なのに思い出すことが出来なかった。あいつ、あいつ。手帳がめくれ、営業先の会社名、名前、商品の名前、商品の特徴を書き殴ったページがあらわれ、工藤は急に吐き気に襲われた。あいつ、あいつ。かつて重要であったはずのものが、あいつに変わってゆく。僕もいつか会社のあいつになり、矢部もあいつと呼ぶだろう。僕は忘れてしまい、みんなも忘れてしまい、忘れて忘れられた後に、いったい何が残るというのだろうか。