モール

短編の小説を中心に載せてゆく予定です。「モールのなかの暮らし」をコンセプトで、ショッピング・モールの小さな物語を集めます。終わりがあるのかは解りませんが、完成次第、発表していきます。

通勤する者

 モールは工業地帯の工場の跡地に建てられた。それより前は穏やかな海が広がり、平地の少ないこの町は少なからざる資本を投資して埋め立てたのだった。工業地帯と言っても、好き好んでかどうなのかそこに住む者は存在する。男は駅までの近さゆえにそこに2階建ての家を建て、食品工場に挟まれた大きな道路を歩いて通勤していたが、5年前、モールに変わって、道が完全に塞がれると、彼は頑なに中を通って駅へ向かった。元の通勤を再現するためには、建物のなかも通らなければならない。朝八時のほとんど客もいないモールを、毎日紺色のスーツ姿の男が歩いている理由はこういうわけだ。

「あそこにいるのは暇そうな連中ばかりだ」彼は妻に話した。

「でも、モールのお陰様でうちの家計はだいぶ助かってる」

「この飯もモールで買ったものか」

「ええ、そのハンバーグは除いて」彼女は答える。「でも、あなたの命令は守ってる。月5000円までしか買わないことってね」

「なぜ駅前のスーパーを使わないんだ」

「だって遠いですもの。それにちょっと陰気だし——」

 それを聞くと男はハンバーグしか口にせず、サラダもコメも残して、彼女は溜息をこぼす。彼女は男がモールを毛嫌いしていることを知っていた。モールの話題をするだけで彼は不機嫌になるうえ、5年前に利用してた数々の小さな店舗のことを語るのだ。だが、そのほとんどは潰れてしまい、残ったものも寿命は幾ばくも無い。

 月5000円までというのは男にとって最大の譲歩のつもりだった。本当はそれすらも許可を出したくなかったが、男の凡庸な給料ではモールの夕方のセールに頼らなくてはならなかった。

 週末になると男はほとんど家を出ることがない。周辺の渋滞は彼を苛立たすだけで、その車の大行列の連中の苛々した顔を見るとさらに苛立った。もし、彼が住むより前にモールがあったなら、何の抵抗もなく利用していたかもしれない。強制的に、しかも悪辣な形で環境を変えられてしまった——男が家の窓を開けると3階建ての巨体があり、その嫌らしい青がかったベージュの外壁が見える。

 建設反対運動に参加したかつての仲間たちとも時が経ち連絡が途絶えていた。彼らの多くは、歓楽街の経営者か、モールから立ち退きを勧告された住民、あるいは潰れるのが目に見えていた周辺の商店の人々で、一度建ってしまうと彼らは何事もなかったかのようにモールを利用していた。そのなかには、モールの内部で働きはじめた者もいる。裏切り者——男の独り言は、何度も彼の口のなかで呟かれ、どこにも届くことなく擦れて消える。

「俺は、俺が死ぬより前に、あの建物が消え失せるのを見届けてから死にたい」

「ねえ、私はあなたが狂ってしまうのを見たくない」

「狂う?」

「この町の誰も反対運動があったことさえ覚えている人はいないし、もう今は、モールがなくなったら困る人の方が多いでしょう。私もそう。きっとあなたは自分が負けたのを認めたくないだけ」

「いや、賛成反対の数の問題じゃないんだ。あいつらのやり方の問題なんだよ。集客数予測のグラフと、土地の価格さえ釣り合えば、どこにだって建ててしまう。そこら中にモールが建てられて、他の店という店がなくなってしまった時に、ようやく俺たちは気が付くのさ。日本のどの町も入れ替え可能じゃないかってね」

 男の通勤ルートは東口から入り、そのままメインストリートを真っ直ぐ抜け西口へ出る。彼が買い物をすることはない。ただ、そこを通ることに彼なりの抵抗があった。もし彼と同じく、金を一円も落とさない人間ばかりが建物をうろつけば、彼らも目を覚ますに違いないと。もちろん、それは起こるはずのないことで、たった一人の人間がモールをうろついたとしても、利益はないが害もない。男は入り口にある立て看板をひっくり返したり、フロアガイドをすべて抜き取ったり、あるいはその他ちまちまと嫌がらせ行為を思いつくままに繰り返したが、そのどれもが長くは続かなかった。嫌がらせをするのにも根気がいるものだ。

 土曜日の夜、彼は珍しく寝付けずにベッドの端で考え事をしていた。妻はまだ一階のリビングにいて、微かにテレビの笑い声が聞こえ、またくだらない番組でも見ているんだろうと彼は思った。眠りを誘うため、ウィスキーを軽く飲もうと思い、階段を降りてゆくとその笑い声が段々と大きくなる。彼がドアを開けると、妻は振り返り目を見開いて、「あ」と小さく呟いた。彼女の手元には、モールの青くベージュがかった袋と、見慣れたチェックの紙袋があった。これは駅前の紳士服店のものだ。

「そういうことか」男は言った。

 彼女は黙ったままだった。

「俺は妻にさえ裏切られていたとはね。月5000円なんて、嘘っぱちだったんだな」

 テレビのバラエティ番組から乾いた笑いが響いている。男は彼女がなんと弁解をはじめても、引き下がるつもりはなかった。しかし、彼が着ているシャツもジャージもパンツも、カエルのスリッパもみなモールで購入したものだった。

「騙したのは悪いと思っている。でも、5000円を越したことはないの。これは信じて欲しい」

「お金の問題じゃない、これは夫婦の信頼の問題だよ」

「どこで買おうと一緒よ。どうしてモールだけは使ってはいけないの」

「どこで買おうと一緒なら、どうしてわざわざモールを使う必要があるんだ」

 男は彼女から包装を取り上げ、わざとらしく音を立てながら破り、なかには赤色のネクタイが入っていた。

「誕生日おめでとう」妻が言った。

 その時、男は自分の身体のなかで、あらゆるものが萎えてゆくのが解った。反対運動はたしかに正しさのための戦いだったが、今の彼はその時の記憶ばかりがぐるぐると頭を巡り、受け入れることができなかったのだ。男はソファに腰掛け、しばらくその赤いネクタイを見つめていた。

試飲

 モールの地下へ降りると、たいていの百貨店がそうあるように、ここでも食品売り場が広がっている。惣菜売り場と焼きたての饅頭屋の間を抜けた先に、「地酒しか扱わない酒屋」があり、やる気のなさそうな男が店前に立っている。彼こそ、この短編の主人公の稲田である。OSBボードで表面を仕上げた台の上にベージュ色のお盆を乗せ、ワインと日本酒(週末には焼酎が加わる)を、きっちり25mlずつ注いでゆく。出勤中のほとんどの時間、彼はそこで客寄せのために、僅かな量の酒を配っていた。

「いらっしゃいませ。とっても美味しいお酒を無料でお配りしております」

 腕時計を見ながら、彼はこの言葉をおよそ20秒毎に機械並みに正確に発していた。そして、「無料」をわざとらしく大声で言い、時折、通行人が振り返るのだが、寄って来る者はいない。だが、誰かひとりが立ち寄ると、堰を切ったように、稲田の周りにわっと人だかりができる。「けちん坊たち」と内心で考えながらも、彼はぎこちない笑みを浮かべひとりひとりに試飲のコップを配ってゆく。

「ワインも、ちょうだい」

「お客様ひとりにつき一杯までなので」

「私の、一杯分も入ってなかったのよ」

「僕が店長に怒られますから」

「前の人は、こっそりくれたのに」

 稲田は周りを見渡して、店長がいないのを悟ると、何も言わず彼女に二杯目を手渡す。受け取った彼女は、店に入ることなく、惣菜コーナーの方へ早歩きで姿を消す。この地下を一回りすれば、おにぎり二個分くらいに腹はふくれるのだ。後ろ姿を見送った稲田は、バインダーに挟んだ表に二本の線を書き込む。

「稲田君、減りは順調?」

 休憩から戻って来た店長が、彼に尋ねた。

「今日は30杯ですね」

「まずまずね。閉まるまでに90は行って欲しいかしら」

 90杯——つまりは、750mlの酒瓶3本分である。どれだけ一日の売り上げが酷いものだったとしても、このノルマは達せられなければならなかった。試飲それ自体が売り上げに繋がることは少なく、その大半は試飲を目的とした人々によって消費されてしまう。試飲のノルマは、不合理なものに思えるのだが、店員たちは変えるべきでないものとして受け入れていた。試飲は、創設当初からの社長のこだわりなのだ。

 稲田はこの試飲の役に回されてから三ヶ月が経っていた。そして、彼はこのノルマが苦痛で仕方なかった。

 結局、その日は56杯しか配れず、彼は残った分の廃棄に向かう。「その日の酒はその日の内に」、これも社長のモットーなのだ。誰もいない給湯室で彼は数杯のワインを飲んだ。そして、脇に挟んだバインダーにその数杯分の線を書き入れ、口臭を消すため何度か水でうがいをして店へ戻った。

 ノルマに到達しなくとも、彼自身が叱責を受けることはない。店長の方はどうなのか彼は知らないが、口調が少々荒くなる様子からして、何らかの圧力はありそうだった。

「59杯! ちょっとあんまりね。稲田君のせいだけじゃないけど、あんまりね」

 店長はそう言って、表に何本か線を付け足す。売り上げなら容易に誤魔化せないが、こちらにしか情報が残らない報告書ならいくらでも足したり引いたりできる。

「車で来るお客さんが多い店舗なのにね」店長は溜息をこぼす。

「試飲して買う客なんて、そんなにいませんよ。大半が試飲の常連さんか、もう会計の終わったお客さんです」

「社長は試飲原理主義者なのよ。試飲の量に比例して、売り上げも伸びるって信じてる。そして、案外それが当たってるのよ」

 その月末に店長の急な転勤が決まった。彼女はみずからその理由を述べなかったが、他の社員からの話によると、各店舗の試飲の統計グラフを見た社長が「お怒り」なのが原因らしい。一ヶ月、店長不在の期間が続いた。その間ノルマを気にする者はなく、稲田は少し気が楽になった。仕事終わりの数杯——これは稲田の止めがたい癖となって、そうしなければ彼の試飲役という退屈な一日が終わらない気がした。彼はこの仕事が自分に合っているとは思わなかったが、責任のない身分で、身体も使わず何も難しい事を考えずに済むという点においては、恵まれた仕事だと思っていた。

 新しい店長が就任すると、その初日から彼女が試飲役を務めるようになった。その声量はあまりに大きく、地下ぜんたいに届いているかと思われるほどで、時折、驚いた客が肩をびくつかせた。そして、彼女はお盆を片手に店内を回り、配りきってしまうと、他の店舗のエリアまで徘徊して、夕方頃には90杯を達成してしまうのだった。

 一方で稲田はレジや品出しなど、かつての仕事をしていた。彼はそのどれもが自分に合っていないことを知っていた。商品を箱から出して並べる作業は人の二倍の時間はかかり、彼がレジに立った後は金額が合わないことが多々あった。前の店長が、彼に試飲役をさせたのはこうした経緯だった。そうして、日が幾らか経つと、新しい店長もそれに気が付き、稲田を元の仕事に戻して、とことん教育することに決めたのだった。

「いらっしゃいませ。とっても美味しいお酒を無料でお配りしております」

「ごめんね、おにいさん、今日は車なの」

「お連れ様はいかがですか?」

「これがあるなら、飲んでみたいです」

「これは試飲できないです」

「あら、残念」

 稲田は右手でコップを掴んだまま渡すことはできなかった。何か言い添える言葉があれば、受け取ってくれたのかもしれない。店長の指示で彼は店から出て、和菓子の売り場の辺りにお盆を持って回る。試食用の饅頭が、樹脂ケースのなかで8等分にされ、爪楊枝が置かれ、「ご自由に食べてください」という黄文字の可愛らしいポップが貼られている。うちもこれでいいじゃないか、彼は心でそうぼやいたが、そうなれば彼の安住する立場がなくなってしまうことに気付いてはいなかった。また、他の店舗の縄張りで客取りをするのには、それなりの覚悟が必要だった。彼らと直接関わりがある訳ではなかったが、何をしているんだと思われているのは彼らの目つきで解った。そうして、何よりあの台の前で棒立ちしていた頃に比べて、試飲の量が減っているのだ。新しい店長なら、と彼は考える——新しい店長はノルマに厳しい人だろう。この新しいやり方は僕に合っていない。

 稲田は給湯室に向かい、コップ並々のワインを2杯飲んで、日本酒を1杯飲んだ。だいたい10杯分くらいは消費しただろうか? 彼は表に10本付け足して、くず入れに10個のコップを捨て、それでもまだ足りない気がしたので、日本酒の瓶を空にしてしまった。最後の一口がきつく、排水口に流そうかとも考えたが、彼は飲み切った。いつも以上に念入りにうがいをしたが、口に手を充てると酒の臭いが残っているが解ったので、一階の薬局でマスクを買い、自分の足がふらついていないのを確かめてから店へ戻った。

「稲田君、さっきマスクなんてしてた?」店長が尋ねた。

「エプロンのポケットに入ってて、あの、自分が風邪をひいていた事に気が付いたんです」

「それはお大事に。でもね、接客業にマスクは厳禁よ。あなたは風邪の人が触ったもので、食べたり飲んだりしたいと思う?」

「すみません」

「でも、まあ、ひいちゃったもんは仕方ないし」

 彼が用心深く小声で話していたせいか、店長は臭いには気が付かなかった。そして、今日は特別にと、あまり動き回らず、以前の慣習どおりあの台で配っておくことと指示を貰った。稲田の前には懐かしい光景が広がっていた。総菜屋の緑豊かなサラダのパック、ガラス板の向こうでは回転焼きの生地が鉄板に流し込まれている。それから、またお馴染みの試飲の常連さんたちが訪れ、「新しく来た人はね、渡してくれなかったのよ」と稲田に小言を言った。次第に、彼の機械的な声出しが途切れはじめ、頭がぼんやりと白くなった。ちょっと飲み過ぎたな——稲田は眠くなると自分の右足を左足で踏みつけ、睡魔を追っ払おうとしたが、また白の世界が訪れたときには、すぐさま店長の声がした。

「ほんとうに大丈夫?」

「大丈夫です」

「帰って貰ってもいいし、何なら医務室もあるのよ。ここで倒れちゃうのも困るし——今、何杯までいったの?」

「えっと、75です」

「後は私がやるから、今日は家に帰って風邪を治しなさい」

 稲田は承諾したけれど、自分の手でノルマを達成したい気持ちはあった。少しばかりズルをしてしまったが、この調子なら上手くいくだろう。口には出さないが、彼は彼なりの試飲役としての矜持があったのだ。しかし、店長に逆ってまでやりますと言うことが出来ず、その日は申し訳なさそうにして帰った。

 彼がそれなりの量を飲まなければ、ノルマに届かないことは明らかだった。だから、彼は飲むほかなかった。もちろん、排水口に流し込んだり、持参のボトルに移し替えるなど他の手段もあったはずだ。ただ彼としては、表に付け足されてゆく「正」の文字は、その日の内に飲まれたものでなければならなかった。私たちから見れば、それは独りよがりの奇妙な鉄則のようにも思われるのだが、彼は至って真面目だ。ひとつ目の良心の壁が越えられた以上、ふたつ目の壁を築かなければならない。

 そうして、マスクをつけたり口臭剤を吹き掛けたりで、一週間彼はノルマを達成した。過去の彼を知る店員たちは不思議に思ったが、新店長の教育のおかげだろうと結論を出した。ある週末の日に、ひとりの客が酒瓶を落として、破片と中身が飛び散り、店長は片付けに給湯室へ向かう。そこにはマスクを顎にずらし、日本酒をラッパ飲みする稲田の姿があった。

「なにしてるの?」

店長は怒りも呆れも通り越し、異星人を見ているような調子で言った。

「試飲を」

「なぜ、あなたが飲んでるのって聞いてるの」

「僕は店長のために飲んでいるんです。僕は酒好きじゃないし、あの、飲まなくて済むならその方がいいです。でも、90杯なんて普通の人にはできないし、でも、店長は90いかないと、上の人に怒られるでしょう。それで、前の店長も、飛ばされたって聞いたし——」

「あんた、自分を正当化しようとしてるけど、言ってること、めちゃくちゃよ」

「じゃあ、捨てた方が良いって言うんですか」

 稲田の悪びれる様子さえ見せないところが、彼女には不思議だった。仕事の適正などという問題じゃない、彼は何かを思い込むことでしか、エゴを見出せないのかもしれない。

 

 その新しい店長も結局はすぐに飛ばされてしまった。店長という肩書きも失って——そう、ちょうど稲田の試飲の現場に居合わせたその夜に、彼がバイク事故を起こしたのだった。地元の新聞記事にもなってしまったので、社内会議で試飲を廃止することが決まった。

オールド・フィッツジェラルド

 ふたりはいつもの様に座席の一番奥に座り、レモンの酎ハイを二つ頼んだ。今日は木曜日なのにほぼ満席で、隣の中年の男性は「パパッと出来るはずの枝豆が遅い」と愚痴をこぼしていた。工藤はスーツのジャケットを脱ぎ、肩に散らばったフケを払い落とすと、連れの矢部にハンガーを渡した。矢部はスマートフォンに見入っていて、その動作に気付かず、工藤が大袈裟に座卓をハンガーで叩くと、サンキュとだけ返事をした。

「どうしようか」

 誰もがメニューを手に取ると発する一言を工藤も口にしたが、相手からは期待する答えが返って来ないことを理解していた。ふたりは三年以上もこの店に通っており、酒も料理も(季節限定のものさえも)すべて体内を一度は通っていたのだ。「何でもいい」それが矢部の答えだった。彼は画面をコツコツと叩いたまま、何か考え事をしているようだった。

 工藤の注文した焼き鳥の盛り合わせと、大根のパリパリサラダが届き、その時、ふたりが店内に入ってはじめて目が合った。矢部の目つきは、あらゆるネット中毒者と同じくどんよりとしたものだった。

「やつれてるな」

「お互い様だ」と矢部は答えて、微かに微笑んだ。

 酒も二杯目に入ると、次第に矢部も意識をネットから現実へと移しはじめた。そうは言っても、対象はアルコールであったのだが。一方、工藤は少し厚目の唇を開いたり閉じたりしながら、ある機会を待ち侘びていた。しかし、彼はまだ自分の方から機会を掴む根性がなく、もう少し強いアルコールが必要だな、と考えていた。彼は鞄から手帳を取り出して、ほとんど真っ新な来月のページを開き、意味もなく月末の枠をシャーペンでなぞった。

「紙の手帳なんてオヤジ臭いぜ」と矢部は言う。

「オールド・ファッションだけが取り柄なんでね」と工藤は答えた。「まだネットも繋げちゃいないんだ」

「まるで原始人だな。ネットがなきゃ、これをするのにも金が掛かるだろう?」

 矢部はそう言いながら、空中で手を擦る動作を見せた。

 工藤がトイレへ立つと店の前に行列が出来ているのが見えた。彼らはみな白い息を吐きながら、右手のスマートフォンを眺めていた。彼は個室に入り、便座の蓋の上に腰を下ろした。尿意があった訳ではない。ただ一人になる時間が欲しかっただけだった。だが、考えてみれば、この店を訪れた時から、彼は一人も同然だったような気がした。工藤がトイレを出て、カウンターを横切った時、棚に並んだキープボトルが目に入った。たしかずっと昔に、ボトルを頼んだ。あの時は、工藤と矢部と―――合わせて五人いたはずだった。会社の同期五人。最後に飲んだのはいつの事だっただろうか。

「ボトルキープしたの、覚えてる?」

「ん?」矢部は顔を上げて顎を撫でた。「ああ。焼酎ではなかったよね。あいつが飲めなかったからさ。そう、あいつ、ほら、最初に辞めてったあいつさ」

「あの頃は、喫煙者が三人だった」

「そうそう。吸わない俺らはいつも端っこに座っていたな」

 矢部はそう言って、座席の角の灰皿が積み上がっている辺りを指差した。

「残ってると思う?」

「なにが?」

「ボトル」

「さあ? 聞いてみるかい?」

 工藤は店の人を呼んでふたりの名前を告げた。そもそもボトルに彼らの名前を書いていたかも定かではなく、ほとんど期待もしていなかった。

「一人酒好きがいただろう?」と矢部が言った。

「いたね、二番目に辞めていったあいつね。お互い給料は少なくて同じなのに、キャバクラではいつも奢ってくれたな。あいつの名前なら、ボトルに書いていたかもしれない」

「名前も思い出せないなんてね」

「連絡先は残ってないの?」

「辞めた奴は全部消した」

 矢部は苦々しい笑みを浮かべた。「退職者の連絡先は消去せよ」というのは、ふたりの会社では社訓より重い鉄則になっていた。退職者がライバル企業を立ち上げて、芋づる式に社員を引き抜いていった過去が、彼らの会社の生々しい記憶として残っていたからだ。ボトルを探しに行った、アルバイトの女性が戻って来て、見つからなかった旨を伝えた。

「せめて銘柄でも覚えてませんか?」

 女性はメニューをふたりに向かって広げて見せた。

「どうだったかな」と工藤が言う。「最後に飲んだのは三人の時だったから、一年は経っているな」

「一年ですか―――おそらく捨ててしまったかもしれません」

「本当に捨てるの?」と矢部は女性の顔をじっと見た。

「ええ」

「流し台に? それとも裏のドブの中かな?」

 女性は不可解そうに矢部を一瞥した。面倒くさい酔っ払いに絡まれたと言いたげな表情だった。また何か解ったら声を掛けて下さい、と彼女は言い残して去った。「新しいバイトの娘だな。大学生かな?」と矢部は独り言を言った。矢部が彼女に狙いをつけはじめたことを、工藤は感じ取った。そうだ、われわれは過去に成功体験があったのだ。しかもこの店で。いや正確には「われわれ」ではなかった。あいつ―――あいつの名前はなんだったか。

「しかし不思議なもんだな。俺たちは最初五人いたはずだった。そして、新入社員の頃に話していたことなんか、よく覚えているんだ。俺たちなら変えられる。俺たちが変えてやる。一人は起業、一人は東京? もう一人はなんだったっけ。たった三年で二人っきりになってしまったな」

 矢部はそう言って、グラスをぐいっと飲み干し、憂鬱げにスマートフォンを見下ろした。言うなら今しかないだろう、と工藤は思った。

「じつは」

「もういい」と矢部は言葉を遮った。「もう知ってる。一ヶ月も前からな。ただ、お前の口から直接聞きたかったけどな」

 彼はのけ反り返って、頭を店の薄汚い壁紙につけ、天井を仰いだ。工藤は謝るべきなのかどうか悩んだ。それは退職のことに対してではなく、矢部が今日彼を誘うまで、工藤自身が機会を作ろうともしなかったことに対して。この一ヶ月の間、白々しい会話をする工藤を、矢部がどういう風に彼を眺めていたのかを考えると、恥ずかしさでいっぱいになるのだった。

「ひとりか」と矢部は呟いた。「工藤の名前も、その内忘れてしまうんだろうな」

「定年まで続けるの?」

「君たちみたいに、俺は要領が良くないからね。安い給料と、ちっぽけな会社にしがみついて生きてゆくしかない。後は会社が潰れてしまわないように、祈るだけさ」

 工藤は何も応えなかった。その最後の言葉は、少し声を荒げた調子で、矢部の不安感がそう言わざるをえないように仕向けたみたいだった。もしこれが逆の立場だったら―――と工藤は思い巡らせたが、彼は途中で考えるのを止めてしまった。

 その時、さっきの店の女性が一本の茶色のボトルを持って来た。今は亡きオールド・フィッツジェラルドで、中には半分ほどの量が残っていた。

「店長に聞いたら、倉庫の方にあるかもしれないと言われて。ちょっと埃被ってますけど」と彼女は言い、湿った布きんで表面を拭った。「運が良いですよ。ウィスキー以外なら、まず残ってませんから」

 彼女は新しいグラスをふたつ、透明なアイスペール、水入りのポットを運んできた。彼女が注ごうとした時、工藤は「自分で注ぐから大丈夫」と言い、彼女は去った。矢部は少し残念そうにしながらも、今日空けちゃうかと笑った。工藤がボトルの首を掴むと、白く太い文字で何かが書かれていることに気が付いた。

 

《田上・桃井・矢部・長谷川・工藤 我ら新人五人衆見参!

最後に飲み干した者が社長になる》

 

 工藤はついつい噴き出してしまい、覗いてきた矢部も大声で笑った。

「これ書いたの、田上だろう。こんな阿保な文章はあいつしか書かない」

「長谷川が俺たちより先に社長になっちまったな。そうだ、長谷川が辞めたのを最後に、これを飲まなくなったんだよ。俺たちどっちもウィスキーなんて飲まないからさ」

「桃井、そうそうそう! 桃井だ。あいつ営業車ぶつけて、そのまま会社辞めたんだったな。懐かしいな。いま何してるんだろうな、桃井」

「一年前に、中央駅ですれ違った気がするんだ。お互い一瞬目が合っただけで、何にも話さなかったけど。鼻の下に髭を伸ばしていたよ」

 かつての同期たちの名前が、獲物を引き寄せる釣り糸になったかのように、まさに今、この座卓に見えない同期たちが同席しているかのように、ふたりは止め処なく思い出話を続けた。ふたりがこうして楽しげに言葉を交わすのも久しいことだった。彼らふたりの関係は、仲のいい同僚というよりは、残された者同士の義務的な繋がりだった。今日ならば朝まで語り合える気さえした。

 閉店間際にふたりはボトルを飲み干し、記念に、と言って空の瓶は矢部が持ち帰ることになった。木曜日は過ぎ、すでに金曜日の空気が街を包みはじめている。別れ際、工藤は「矢部が社長になれよ」と肩を叩いた。矢部は「その時にはお前ら全員呼んで、好きなだけ飲ませてやるよ」と答えた。タクシーが出発して、先の交差点の赤信号で止まった時もまだ矢部の手を振る姿が(反対の手にボトルを掴んだまま)見えた。青信号になり、矢部の姿も次第に夜の闇に消え入った。工藤は酔った頭を押えながら、明日の予定を確認しようと手帳を取り出した。朝に重要な案件はなく、最悪は残った有給を消化できそうだった。彼はその時、忘れてしまわない内に、ボトルに書かれていた名前を書き残しておこうと思った。だが、ついさっきの事なのに思い出すことが出来なかった。あいつ、あいつ。手帳がめくれ、営業先の会社名、名前、商品の名前、商品の特徴を書き殴ったページがあらわれ、工藤は急に吐き気に襲われた。あいつ、あいつ。かつて重要であったはずのものが、あいつに変わってゆく。僕もいつか会社のあいつになり、矢部もあいつと呼ぶだろう。僕は忘れてしまい、みんなも忘れてしまい、忘れて忘れられた後に、いったい何が残るというのだろうか。